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ジョンズクリーク()は、アメリカ合衆国ジョージア州の北西部に位置するフルトン郡に位置する都市である。2010年の国勢調査で、人口は76,728 人となっており、州内第10位である。アトランタ市の北東にある裕福な郊外都市である〔http://www.northfulton.com/Articles-c-2009-05-14-177756.114126-sub24321.114126_Johns_Creek_is_states_wealthiest_city.html〕。雑誌「マネー」に拠れば、アメリカ合衆国でも収入の多い都市第13位である〔http://money.cnn.com/gallery/real_estate/2012/08/20/best-places-top-earning-towns.moneymag/13.html〕。 == 歴史 == 19世紀初期、ジョンズクリークの地域には、当時チェロキー族インディアンの領土だった所のチャタフーチー川沿いに、交易基地が点在していた。チェロキー族は酋長が率いる農業村が集まった国という形を取っていた。ヨーロッパ人がこの地域に入ると、チェロキー族はアメリカのモデルに倣い、文字を使用し、立法と司法の仕組みを作った。 幾つかの交易基地は次第に交差点の町となり、そこではロジャース、マギニス、フィンドリー、ビュース、カワート、メドロックなど開拓者の家族が集まって来てその収穫物を売った。 1820年までにシェルトンビル(現在はシェイクラグ)の町が渡し船の運行される場所となり、マギニス渡しとロジャース渡しが少額の料金で人や家畜を渡河させた。さらに南のネズビット渡しもニュータウンと呼ばれる別の交差点町近くで同じ機能を果たした。 1820年代、北東ジョージアのチェロキー族領内の丘陵部で金が発見された。そこは今日のジョンズクリークの北約45マイル (72 km) にあり、アメリカ初のゴールドラッシュとなり、1830年にはアメリカ合衆国政府がチェロキー族の領土を取り上げ、最終的にはチェロキー族をオクラホマ州など西部の諸地域へ追放(涙の道)することになった。 幾らかのチェロキー族はこの地域に留まった。その中でも有名な者は開拓者ジョン・ロジャース(1774年-1851年)の妻でチェロキー族との混血だったサラ・コーダリー(1785年-1842年)であり、その子供達12人がいた。ロジャースは尊敬され影響力あるプランテーション所有者であり、アンドリュー・ジャクソン大統領の仲間でもあった。ロジャースが1828年に建てた家は、今日ではジョンズクリークの民家となっているが、ジャクソンが一晩立ち寄ったこともあった。それからかなり後にこの家にはコメディアンでユーモア作家のウィル・ロジャースも訪れていた。ウィル・ロジャースはジョン・ロジャーズから3代後の甥にあたった。ジョンズクリークの名前はジョン・ロジャースの息子ジョンソン・K・ロジャースから採られた。地元の水路に彼の名前が付けられ、「ジョンズ・クリーク」がその後に地域の名前となった。 1831年、チャタフーチー川の北にあった元はチェロキー族の領土の多くが、広いチェロキー郡の中に組み入れられた。1858年にミルトン郡が創設されたとき、ジョンズクリークの地域もその中に含まれた。 1930年代の世界恐慌の時代、ミルトン郡が改組され、その全域がフルトン郡に吸収された。 オーシー、ニュータウン、シェイクラグ、ウォーソーという4つの主要な交差点町が、フルトン郡北東部の田園で未編入領域の社会、教育、事業の中心となっていた。その後の50年間、これらの町が、この未開で人口の少ない地域にとって一体感をもたらすことに貢献していた。近くのロズウェル、アルファレッタ、ダルース、スワニーなどの都市と、隣接するフォーサイス郡やグイネット郡は成長と発展を続けていた。 1981年、ジョージア工科大学卒業生の集団がマギニス渡しとメドロック橋道路に近い農地と森、1,700エーカー (6.9 km2) を購入し、ハイテク・オフィスパークにした。このオフィスパークは、1970年に近くのピーチツリーコーナーズ市に開発されたテクノロジー・パーク/アトランタを真似たものだった。彼らは古い地図で小さなジョンズクリークの名前を認め、その多目的計画都市を「テクノロジー・パーク/ジョンズクリーク」と名付けた。これが地名としてジョンズクリークが引用された始まりだった。この地域はその後の年代に成長して200社が在籍することとなり、その多くがフォーチュン500に入るような会社だった。床面積600万平方フィート (560,000 m2) の事務所、店舗と企業のスペースで11,000人近い人々が働くようになった。職があれば住宅やショッピングセンターが付加され、人口は約6万人増加した。 2000年までにジョンズクリーク地域を市として法人化を目指す草の根運動が緩りと展開された。住民は交通、生活の質の成長、発展などの問題を支配することを望んだ。彼らはサービスの一定レベルに達することを求め、それはスプロールしていくフルトン郡の現状に挑戦するものだった。近くにあるサンディスプリングス市が2005年に法人化したことに続き、ジョンズクリークを法人化する運動が始まった。州議会で法案1321が通過し、2006年3月にはソニー・パーデュー州知事が署名し、2006年7月18日にフルトン郡の北東部で行われた住民投票でも承認された。2006年11月、市では初の選挙で選ばれた役人が就任し、ジョンズクリーク市は2006年12月1日に公式のものとなった。〔http://johnscreek.georgia.gov/05/home/0,2230,70163884,00.html;jsessionid=8CBA440694CD6F6179CD803E9382F99B〕。 2015年11月16日、ジョンズクリーク市政委員会はほとんど警告もせず、公開のコメントも無いままに、全会一致でアトランタ・マルタの鉄道をフルトン郡北部に延伸することに反対する決議を通した〔http://politics.blog.ajc.com/2015/11/19/johns-creek-council-votes-full-and-complete-opposition-to-marta-rail-expansion/〕。ジョンズクリーク市民の中には委員会委員のために公衆の関与が無いことを心配する声が上がっている〔https://johnscreekwantsmarta.wordpress.com〕。2015年11月19日にあったアトランタ・ミレニアル・レボルーションの行事では、北アメリカ・プロパティーズのマーク・トロが、アトランタ・マルタの延伸に反対する郊外の郡は人種差別に関わっているとしか言えないと主張した〔https://www.bisnow.com/atlanta/news/commercial-real-estate/martas-uphill-expansion-battle-because-ofracism-52733〕。このような問題があるにも拘わらず、アトランタ・マルタのコネクト400プロジェクトは、アトランタ市と州道400号線回廊を結び、フルトン郡北部とアトランタ大都市圏で急速に成長している郊外部の交通動脈とするべく、計画を推進し続けている〔http://www.itsmarta.com/north-line-400-corr.aspx〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョンズクリーク (ジョージア州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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